震災を知らない子はもう6年生に
東日本大震災から12年。津波で街全体が流されてしまった、宮城県石巻市の門脇(かどのわき)地区。
周囲を新しい堤防が取り囲み、公園として整備されつつある広大な空き地の上をカモメが飛んでいる。かつてここには、1700世帯もの家々が立ち並んでいた。
「もし娘が生きていたら、今は高校3年生。どういう子に育っているのか、中学までは想像できたけど、高校から先は想像がつかないです。人生がどんどん分岐していくので...」
そう語るのは、“語り部”として震災の教訓を残す活動を続けている佐藤美香さん。東日本大震災で、6歳だった愛娘を亡くしている。
2021年、佐藤さんは公益社団法人「3.11 メモリアルネットワーク」基金の助成金を利用し、自らの経験をマンガにして約1万部を配布した。
「震災を知らない世代も増えてきて、大きな子だともう小学6年生になります。そんな子たちに伝えるために、震災の教訓をブログなどで発信しているアベナオミさんにお願いして、マンガにしてもらいました」
そもそも石巻は、マンガ家・石ノ森章太郎さんの「石ノ森萬画館」がある“マンガの街”。この表現にたどり着いたのも自然な流れだった。
娘が助かるチャンスはあった
あの日、いつものように幼稚園へ行った、当時6歳の愛娘・愛梨ちゃん。帰りのバスで津波に巻き込まれてしまったため、佐藤さんは「ただいま」の声をいまだ聞いていない。
「愛梨は地震発生時、高台にある幼稚園にいたので、そのまま園内に待機させるべきだったんですけど、園長は発生から15分くらいしてバスを出してしまったんです」
佐藤さん宅は内陸部にあり、本来なら愛梨ちゃんは内陸に向かうバスに乗るはずだった。ところが2便を1便にまとめるべく、海側行きのバスに乗せられてしまう。そのことを保護者は知らされていなかった。
「それでも助かるチャンスはありました。バスはいったん、低地にある門脇小学校に立ち寄ります。そしてそこへ、幼稚園から2名の先生が『バスを園に戻せるか?』と伝令に来たんです」
先生は走って来たのだが、伝令しただけで、園児をバスに残したままその場を立ち去ってしまう。幼稚園までは歩いて数分の距離だ。
「小学校の裏は山です。せめてこの石段を上ってくれるだけでも助かったと思うと、本当に悔しいです。園児の足でもバスからたった1分の距離なのに」
再び出発したバスは渋滞に巻き込まれて、そこで津波に遭遇する。やがて、流れてきた家屋や車に火の手が回り、火災も発生。漆黒の水面は文字通り“火の海”となった。
「門脇小学校も焼け落ちました。だけど幸いなことに、この小学校の生徒たちのほとんどは山側に避難して助かっています」
水が引き、焼けた被災物の山の中から、まだくすぶっているバスの残骸を見つけることができたのは、震災3日後のことだった。
「娘は津波で亡くなったわけではなく、焼死でした。真っ黒焦げになって、赤ちゃんくらいの大きさになってしまって...。風が吹けば崩れそうだったので、最後に抱き締めてあげたかったけど、それもかないませんでした」
明暗を分けた、高さたった数メートルの坂道
愛梨ちゃんを含む園児5人と添乗員が亡くなり、運転手は生還した。
うち3人の園児は抱き合うように、同じ方向に頭を向けた状態だったという。津波で亡くなっていたら、それぞれ引き離されていたはずだ。
後日、付近の住人からは、夜中まで被災物の山の中から助けを求める子どもらしき声が聞こえてきたという証言も寄せられた。
「あの日は雪も降るとても寒い日だったのに、津波を耐えた子どもたちは真っ暗な中、ずっと助けを求めて、必死で生きようとしていました。次から次へと襲いかかる余震や爆発音。想像してもしきれないくらい怖かったと思います」
バスが発見されたのは、山側の住宅街へと続く細い坂道の麓。緩い傾斜のその生活道路を上ると、そこには震災前と変わらない街の姿が広がっている。
明暗を分けたのは、このたった数メートルの高低差でしかない。
「ほんのちょっとの差で、これだけ変わってしまうんです。これが災害なんです。だから日頃の備えが本当に大事。私、出身が熊本なので、地元の友だちにもずっと『家具を固定してね』とか言い続けてきたんですよ」
東日本大震災から5年後の2016年に熊本地震が起きて、友人たちからこんなことを言われたそうだ。
「『地震が起きて、初めて美香が言っている意味が分かった!』って。だから伝承って本当に難しい。受け手に実際に動いてもらわないと意味がないんです。当事者になってからだともう遅いんです」
防災に対する意識の差。なんとかして、それをなくしたいと切実に考えている佐藤さん。
「保育所と幼稚園でさえ格差があるんです。保育所の管轄は厚労省で、毎月の避難訓練が義務付けられています。対して文科省管轄の幼稚園は、消防法で規定された最低年2回以上やっていればいいことになっています」
実際に毎月避難訓練をしていた海側の門脇保育所は、指定避難所だった門脇小学校には向かわずに、1.8キロメートル離れた山側の石巻保育所へ無事避難している。
「門脇保育所の所長いわく、震災が『3月でよかった』そうです。小さい子でも1年かけて訓練してきたので、その積み重ねが発揮できたんです。日頃から備えていれば、園児だけでなく大人の意識向上にもつながります」
しかし、そう訴え続ける佐藤さんの伝承活動に対して、「まだあのときの話をしているの?」と言う人もいるらしい。
「震災との向き合い方は人それぞれですから...。ここで震災について触れるのは、エネルギーが要ります。でも、もし私が幼稚園の防災体制を知っていれば、娘の命は守れたかもしれません。だから皆さんにも、自分や家族が通う施設の防災体制を学んでほしくて、語り部を続けています」
そして佐藤さんは語りを聞きに来た人たちに、「お家に帰ったら『ただいま』と言ってください」といつも最後にお願いする。
「あの日、家を出ていった愛梨から、まだ『ただいま』の声が聞けなくて、何げない日常の大切さに気付かされました。何か小さなことでもいいから、今から始めてほしい。『ただいま』はその第一歩だと思っています」